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大津地方裁判所 昭和56年(行ウ)4号 判決 1982年2月08日

原告 松井勘兵衛

被告 国

主文

一  原告の大津地方検察庁検察官がした裁定の取消を求める訴を却下する。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  原告の申出にかかる大津地方検察庁昭和五六年(補)第三号被疑者補償請求事件につき、検察官が昭和五六年四月二〇日付検第一七五号をもつてなした補償をしない旨の裁定は、これを取消す。

2  被告は原告に対し金一〇万五六〇〇円及びこれに対する昭和五三年六月二八日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。なお、請求の趣旨2項を認定し仮執行宣言を附する場合には担保を条件とする仮執行免脱宣言を求める。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は昭和五三年六月二八日、被告により私文書偽造同行使詐欺(以下「本件被疑事実」という)の被疑者として逮捕され、翌日より同年七月一九日まで勾留され、計二二日間抑留又は拘禁された。

2  原告は本件被疑事実について起訴猶予とされ、公訴を提起しない処分に附された。

3  ところで、原告は、本件被疑事実を犯していないので、被告に対し、被疑者補償規程に基づき抑留又は拘禁一日につき四八〇〇円の割合による二二日分の合計額である金一〇万五六〇〇円の請求権を有する。

4  原告は昭和五六年四月三日、大津地方検察庁に対し、右金員の補償の申出をしたところ、同庁検察官は、同月二〇日、補償をしない旨の裁定(同日付検第一七五号、以下「本件裁定」という)をした。

よつて、原告は被告に対し、本件裁定の取消を求めるとともに、被疑者補償規程に基づき、請求の趣旨2項記載の金員の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1項、2項及び4項は認める。

2  同3項中原告が本件被疑事実を犯していないとの点は否認し、その余の主張は争う。

3  本件裁定の取消請求について

被疑者補償規程の法形式は訓令であり、訓令は行政組織内部における命令にすぎず、法令の授権に基づくなど例外的な場合を除いては国民の権利義務に直接影響を及ぼすような法規としての性質を有しない。従つて、国は被疑者補償規程により補償金を交付する法律上の義務を負担せず、国民は同規程を根拠として国に対して補償金を請求する権利を有しない。したがつて、同規程五条及び六条一項所定の検察官の裁定は原告に対して法的効果を及ぼすものではない。

よつて、本件裁定は行政処分に該当せず、その取消を求める本件訴えは、その対象を欠き不適法である。

また、仮りに本件裁定が行政処分に該当するとしても、原告は、本件裁定をした行政庁でない国を被告として右訴えを提起しているので、行政事件訴訟法一一条一項に違反し、不適法である。

4  補償金支払請求について

右に述べたとおり、国民は被疑者補償規程を根拠として国に対して補償金を請求する権利を有しないのであるから、原告の補償金支払請求は、主張自体失当であり、理由がない。

第三証拠<省略>

理由

第一被疑者補償に関する一般論

憲法四〇条は、抑留又は拘禁された後無罪の裁判を受けた者が国に対しその補償を求めうることを基本的人権として保障しており、刑事補償法(昭和二五年一月一日、法律一号)は右権利を具体的に規定している(以下同法に基づく刑事補償を「無罪補償」という)。右保障の根拠は、国家は、刑罰権の実現という極めて重要な作用を適正に運営するために被疑者や被告人の身体を拘束して捜査や裁判を行う必要があるが、他方、これらのそれ自体は全く適法な拘束が時に無実の者に対して行われ、その者の権利を侵害することがありうるので、そこから生じる国民の損害に対して賠償することが、近代国家における刑事司法の正義と衡平の観念に適合するとの考えに由来すると解される。とすれば、抑留、拘禁された後不起訴処分になつた場合であつても、その者が無実であるかぎり、同人が抑留、拘禁されたため被る財産的、身体的、精神的不利益を補償すべきことは、無罪の裁判があつた場合と本質的な差異はなく、これを行なうことこそ憲法四〇条の趣旨に沿い、正義と衡平の観念に合致することは疑う余地がない。かような考慮から、昭和三二年四月一二日、法務省訓令一号として被疑者補償規程が制定され、被疑者補償が現に実施されていることは、裁判所に明らかである。

ところで、(一)被疑者補償のように、国民の利害に重大な関係のある事項については、本来、これを法律によつて規律し、国家と国民との間の権利義務の法律関係として明確にし、これについて争いのある場合には公平な第三者機関(最終的には裁判所)の判断を受けうる途を開いておくことが望ましいこと、(二)無罪補償と被疑者補償との間には、前記のとおり本質的な差異はないこと、(三)かえつて、無罪補償は、検察官が公訴を維持するに足る嫌疑があるとして起訴し、裁判の結果、無罪となつた場合の補償であるのに対し、被疑者補償は、検察官が初めから公訴を維持するに足る嫌疑がないとし、あるいは、そもそも犯罪とならないとして起訴しなかつた場合をも含む補償であるから、後者のほうが補償すべき度合が高い場合もあり、これが現行制度上訓令という形式で規定されているとの一事をもつて権利性を否定されることには問題が残ること、(四)被疑者補償規程の制定後、昭和五〇年には、国会において、当面、被疑者補償制度につき、その規程を整備するとともに、その適切な運用を図る所要の方策を講ずべきである旨の要望決議がなされ、これを受けて、従来、同規程二条が「検察官は、………補償をすることができる。」と規定していたのを「………補償をするものとする。」とし、また同規程による補償事件を立件すべき場合を明確にする等の改正をして積極的な運用を図り、その旨の通達もなされているところ、右改正後についても、果して十分な被疑者補償がなされているのか明らかでなく、被疑者補償も無罪補償と同様に法的権利として認め、無実の被疑者の利益保護を図るべき現実の必要性が依然として消失していないこと、以上の諸点に鑑みれば、被疑者補償が法的権利として認められることが望ましいことは疑いを容れない。

しかし、他方、これを立法化する場合、「罪とならず」とか「嫌疑なし」などの理由で不起訴処分が行なわれたという形式的に明確な事実のみを要件として規定することは、不起訴処分が確定的なものでないため適当でなく、「被疑者が罪を犯さなかつた」などという実体的な事実を要件として規定せざるを得ないことになり、例えば、起訴猶予の場合においても、被疑者から真実は無実であることを主張して出訴することを容認し、極論すれば全ての不起訴処分についても被疑者補償請求の審査の名の下に裁判所が有罪・無罪ではなく、嫌疑があるといえるかどうかを判断することとなり、検察官の行う不起訴処分の理由の相当性について裁判所が介入するかの如き結果を招来するおそれがある。また、刑事訴訟法上公訴を提起するか否かという最も基本的な事項が検察官の裁量に委ねられているのであるから、不起訴処分にした場合これに附随するにすぎないとも言いうる補償の判断も又検察官の裁量に委ねるのが相当であり、検察官がことさら不公正な判断をするような事例は生じないであろうと期待できないでもない。現在に至るまで前記立法がなされないのはこのような配慮からであろうと推測される。

第二現行制度における被疑者補償の法律的性質

右にみたとおり、請求人が無実であるかぎり、元来は被疑者補償も無罪補償と同じく法的権利として認められるべきことは疑う余地がない。しかし、現在は、被疑者補償が被疑者補償規程という法務省訓令に基づいて行われているにとどまるところ、訓令は、国家行政組織法一四条二項に基づき、大臣がその監督下にある行政機関又は職員に命令又は示達するために発する行政機構内部の命令であり、これを受けた者を拘束するけれども、一般国民に対しては直接の効力を及ぼさないものである。検察官に対して発せられた右規程も、検察官に補償をする権限と義務とを与えるにすぎないから、不起訴処分を受けた者としては、その反射的効果によつて補償金の受領又は補償の公示という利益を受けるにすぎない。従つて、無実の被疑者と国との間の法律関係については、検察官が右規程に従つて補償の裁定をし(同規程五条、六条一項)、補償金の交付を受けるべき者にこれを通知したときに(同規程六条二項)はじめて国とその者との間に具体的な法律上の関係(贈与契約ないしこれに類似の一種の無名契約の申込ないし承諾といえよう)が生ずるという他ない。

従つて、現行制度上の解釈としては、検察官の補償をしないとする裁定あるいは減額された金額による裁定に対して、行政不服審査法に基づき不服申立したり、行政事件訴訟法に基づき抗告訴訟を提起したり、民事訴訟により補償金を請求したりすることはできないと解さざるを得ない。検察官の裁定に不服がある場合には、上級検察庁の長に不服の申立をし、監督権の発動による裁定の変更を求めるしか方法がない。

第三結論

右のとおり、現行制度上は、検察官の補償をしない旨の裁定は、被疑者にとつて何ら法律的に意味のある行為ではなく(強いて言えば、契約申込に対する拒絶といえよう)、抗告訴訟を提起できる行政処分には該当しない。また、被疑者補償規程によつては、当該被疑者が国に対し補償金請求権を直接取得しないことも前記のとおりである。

よつて、本件裁定の取消を求める訴えは、被告適格(本件裁定が行政処分とすれば、検察官を被告としてその取消を求めるべきこと)について論ずるまでもなく、不適法であるから、これを却下し、補償金の支払いを求める請求は、主張自体失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担については、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(なお、原告は国に対する金銭請求について国家賠償法に基づく損害賠償として予備的に請求する旨の申立をなした。行政事件訴訟法一九条一項によれば、同法一三条に規定する関連請求を取消訴訟に併合して提訴できる旨規定されているけれども、原告の右予備的請求は、原告が捜査官の故意若しくは過失ある行為によつて違法に拘束を受けたという、本件裁定の有無ないしはその適法、違法と全く関係のない事実に基づくものであるから、同法一三条の関連請求にあたらない。従つて、右予備的請求は本件取消訴訟に併合して提訴することは許されない。よつて、これによる訴の追加的変更申立は許さない旨第二回口頭弁論期日において決定した次第である。)

(裁判官 小北陽三 伊藤剛 佐の哲生)

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